お茶をのみに来てください♫

子どもの育ちにそって大人と子どもが一緒にあそべる「わらべうた」の世界。保育や子育て支援の現場でわらべうたをしてきた「ゆずりはわらべうたインストラクター」の仲間たちが、日々思うこと、活動報告、あそびのアイデアなどを綴ります。

記憶の継承とは 

 毎年夏休みは日本へ帰国しているので、

ヒロシマナガサキ そして8月15日が近づくと、テレビの特集番組を見ています。

 

人々が重たい口を開き始め、

そして様々な極秘資料の紐がとかれ、

私たちの知らなかったことが戦後時を経て次第に明らかになってくることに、

いつも大きく胸を揺すぶられます。

 

しかし、この夏はコロナ禍のため、私は帰国を断念。

フランスで夏休みを過ごしています。

 

そんな中、日本ではなくとも、この夏ヨーロッパでは「歴史の記憶」をめぐって、

ひとつの動きが社会に起きています。

 

アメリカのミネソタ州で、

白人警察官に首を押さえつけられ黒人男性が死亡した事件が、

全米で大きな抗議デモとなり、

それを発端にパリでも6月中旬には15000人が参加する人種差別反対デモがありました。

 

同じ時期に、黒人やアラブ系の市民への警察官の暴力行為に声を上げる人々が増えていて、

6月以降フランス社会では

人種差別と警察権力の現状が大きな社会問題となっています。

そしてそれは、歴史を遡り、人々の目を西欧諸国の歴史の暗点に向けさせました。

 

奴隷貿易と植民地政策です。

その事実は歴史上どのように位置づけられているのか、

そしてその記憶は現代の社会にどのように継承されているのか。

あらたな問いかけを引き起こしました。

 

 « Déboulonnage » という言葉が、この夏SNSや各メディアで飛び交っています。

これは「人を地位・名声などから引きずり降ろす、人を失脚させる」という意味で、

国の歴史上の偉人となっている人物たちについて、

奴隷貿易や植民地政策の遂行における彼らの役割と利益を糾弾することです。

 

6月10日には、ブリュッセルの中央広場にあるレオポルド2世の銅像

ペンキでいたずら書きがされました。

彼は19世紀にアフリカのコンゴを植民地化したベルギー王で、

それによって膨大な個人資産を蓄えたとも言われています。

 

6月23日にはパリでも、

ルイ14世の下で経済大臣として奴隷貿易法を強化したコルベールの銅像が同じような被害を受けました。

奴隷貿易あるいは植民地政策を率先してその利益を受けたことは語られず、

国の貢献者、英雄として銅像となり、

あるいその名前が通りや広場の名前になっている….こうした場所や銅像は、パリだけでも150以上あると言われています 。

 

人種差別反対団体や一部の若者の間では

« Déboulonnage »の行動を呼びかける声がSNSで大きくなる中、

「・・・では、銅像を取り壊すべきか。

銅像を取り除いてしまっては歴史を忘れ去ることになる。

そうではなく、歴史の醜悪な側面に脚光をあてた、

もう一つの記念碑や銅像あるいは博物館を建立する必要がある」。

 

そういう見解を述べる政治家や歴史家に多くの人々が同意を示しています。

実際、こうした考えに基づく措置は、

この国ではすでに多くの場所でなされてきています。

 

2001年、フランスでは奴隷貿易を人道に反する罪と正式に認めた法令が制定され、

それをきっかけにこの貿易の主要な港であったボルドー、ナント

そして私が住むここラロシェルの3都市では、

奴隷貿易がどのように繰り広げられ、

利益を得て町がどのように経済的に潤っていったかを

市民に説明する努力がなされました。

奴隷貿易歴史博物館ができ、

ラロシェルでも観光客で賑わう港の通りにプレートが設置されました。(写真1)

 

ナチスホロコーストに関しても同様です。

4年前、私は教師として、

同僚や生徒とともにあるプレートの建立運動に参加する機会を得ました。

戦時中ラロシェルでもユダヤ人たちがある小学校に監禁され、

ラロシェルの駅からパリのドランシー収容所をへてアウシュビッツへと送還されていきました。

私たちはその小学校の今の校長先生と市長に働き掛けて、

この歴史事実を記したプレートを小学校の入り口に取り付けることができました。

(写真 2)

その取付式のレセプションで、

当時ここに監禁されその後ウシュビッツから生還した女性が招待され、

小学生たちの前であいさつをしました。

 

「・・・どうしても最後に、未来のあるあなたたちに言わなければいけないことは、

私たちを監禁したのはドイツ人兵士じゃありません。

皆さんのおじいさん、ひいおじいさんのようなフランス人たちでした。」

 

彼女のこの言葉に、

「子供にあんなことをいって、可哀そう」

「子供には罪はないし、これからフランス人であることに負い目を持つようなことは言うべきじゃない」

といった声は全く上がりませんでした。

 

そして校長は

「教育者として、今日の日は本当に光栄な日です。

このプレートのおかげで、歴史の記憶が次の世代に継承されていく。

その場所として、公立小学校という公共の場ほど、ふさわしい場所はないでしょう。」と晴れやかに語っていたのを覚えています。

 

数年前のこのレセプションの日のことを今思い出しながら、

わたしの思いはこの夏帰国できなかった日本へと向かいます。

「日本の記憶は子供たちにどのように継承されているんだろう」と。

 

この原稿を書くきかっけとなったのは、

数日前にインターネットで見た、

3年前のNHKスペシャル731部隊の真実 エリート医学者と人体実験」でした。

取材班の調べでは、主に京大そして東大の医学部が、

当時積極的に研究者を731部隊に送り、

軍と結びつくことで多額の研究費を得ていたことが明らかになったとありました。

それは今の額にして2億5千万円にも上るとのこと。

ずっしりと胸にこたえた番組でしたが、

ふと今の巷の« Déboulonnage » をめぐる論争を思い、

次のようなことを思わずにはいられませんでした。

 

「・・・京大医学部の入り口に、この記憶を継承するプレートがあったらどうだろう・・・それに、今はフランスの高校生でも知っている日本軍の慰安婦や、朝鮮人強制連行という記憶の継承は、どうなっているのだろう・・・。」

 

ヒロシマナガサキの平和記念資料館の存在は素晴らしいものだと思います。

日本へ行くフランス人の多くが、必ずと言ってよいほどここを訪れています。

 

最近、フランスの小さな村で出会った80代の男性が、

私が日本人であると知ると、まじまじと私の顔を見つめ直し、

「私はあなたの国、日本に敬意を払います。

恐ろしい原爆を体験して、立派に国を再建しました。

日本人はすばらしい」と私の手を握りました。

 

日本人であるということで、

こうした言葉や思いを受けた経験はこれまでにも何度かありました。

そして、日本と日本人にいろいろな意味で暖かい思いや敬意、憧れを抱くフランス人がたくさんいることは、

この国で高校の日本語教師を務めている私が日常いつも感じることです。

でも、これからも日本がこのように尊敬に値する国であり続けるには、

ヒロシマナガサキだけではなく、

フランスがその学校教育の理念に掲げる

 

「記憶継承の義務」に基づいて歴史の暗点に挑んでいるように、

日本もまた自国の歴史の暗点にしっかりと向き合う姿勢を国際社会に向けて発信していく必要があるのではないでしょうか。

 

「この子たちの責任じゃない」「暗い過去を教えたら、卑屈になってしまう」

そんな一部の大人の懸念が全く意味のないものだということは、

30年間この国に暮らした私にははっきりと言えます。

教師から、大人から、歴史の記憶をしっかりと伝承された子供たちは、

自分たちに歴史が伝承されたことを誇りに思い、

今度はそれを次の世代に継承していく使命感を自らに養っていく、

そういうサイクルがあること、

そしてその中で他人に共感できる感性が築かれていくことを、

私は信じます。

隠したり、消し去ったりすればするほど、

もしかしたら記憶を伝承されなかった子供たちは

逆にいつか過激な« Déboulonnage » に走ってしまうのかもしれない、

そんなふうにも感じています。

 

「歴史の醜悪な側面に脚光をあてた、

もう一つの記念碑や銅像あるいは博物館を建立する必要がある」。

この夏この思いを深めなければならないのは、フランス人だけではないはずです。

                   2020年 8月17日    Atsuko 🐺

f:id:yuzurihawarabeuta:20200818152933j:plain

写真 1

ラロシェルの港の奴隷貿易メモリアルプレート

« 全ての大陸で、未来を構築するのに記憶は不可欠だ。忘却と沈黙からは何も生まれない »

   セネガル人Joseph N’Diaya

セネガルにある奴隷貿易メモリアル« 奴隷の家 »の旧 館長)の著書からの引用文に続き、次のような説明文が記されています。

« 三角貿易とは新世界の植民地に黒人奴隷を供給するためにヨーロッパ、アフリカそしてアメリカの間で行われた貿易である。16世紀にヨーロッパ、アフリカそしてアメリカの間で巨大な規模の奴隷売買が始まった。それから約350年の間、何百万人もの人間が、ヨーロッパの生産物と引き換えにアフリカから強制的に連れ去られ、貨物のように船底に積まれ、新世界の植民地の労働力として運ばれた。彼らの労働は搾取され、生産された食料品はヨーロッパに運ばれた »

     

f:id:yuzurihawarabeuta:20200818153102j:plain

写真 2

ラロシェルの小学校の入り口にあるホロコーストメモリアルのプレート

高校生と小学生の言葉が記されています。

« 自由にここを歩き回る君たち、忘れないでくれ ! 1944年1月31日、フランス国家の権限の下で、この地方に住んでいた44人の子供を含む90人のユダヤ人がこの学校に監禁され、ここから収容所に強制送還されていったんだ。生きて帰ってきたのは9人だけだった。 »

2016年 4月28日 ラロシェルの高校生一同

« 1994年、私たちの学校からパリのドランシー強制収容所に送還されていった家族、ナチスホロコースト政策の犠牲者に敬意を表して。»

2016年 4月28日  6年生一同