お茶をのみに来てください♫

子どもの育ちにそって大人と子どもが一緒にあそべる「わらべうた」の世界。保育や子育て支援の現場でわらべうたをしてきた「ゆずりはわらべうたインストラクター」の仲間たちが、日々思うこと、活動報告、あそびのアイデアなどを綴ります。

子どもの成長を見る眼差し

3年ほど前から月に1度わらべうた遊びを伝えに行かせていただいている保育園で最近あった嬉しかったこと。

 

 幼児クラスで ♪かわのきしのみずぐるま♪ で2人組になってから ♪なべなべ♪ をすることを何度か繰り返して遊んだ。

4,5歳で20名の合同クラスで行ったところ、1人は参加できなかったので19人。

2人組になるところで4歳児の女の子が余って1人になった。

一瞬どうしようかな?と思ったのだけれど、そのまま様子を見つつ遊びを続けたところ♪なべなべ♪ の曲が一曲終わり、次の ♪かわのきしの♪ で二人組を作るときにはなんとかしようと自分から友達を求めて動いていった。

その女の子はその後の遊びにもいつもよりも積極的に参加し楽しむことが出来ていたように思った。

 

 振り返りでの担任との話

その女の子は消極的な子で泣き出してしまうのではないかと思っていたということだった。

担任のところにその子が来たら手をつなごうと思っていたがそうではなかったので、あえて自分から助けを出すことはせず見守ったとのこと。

次の2人組の時に気持ちを立て直して自分で相手をすぐに見つけたのを見て成長を感じたし嬉しかったと話してくれた。

 

保育士は親切心から子どもに可愛そうな思いをさせたくないと手を出す場面を見ることが多い。

わらべうた遊びは楽しく遊ぶことだけではなく、1人1人の成長に気付く場でもあると思う。時期的なこともクラスの成熟度もあるので一概には言えないかもしれないが子どもの力を信じて待つことも必要だし、まなざしで励ますこともあると思う。

 

担任としては少し勇気のいる対応だったかと思うが、わらべうた遊びをしていく中でクラスの1人1人の子どもたちをとてもよく観ているからこその行動だったのではないかと思う。

振り返りの際に一番にそのことを感想として取り上げていたことは保育士としての子どもの見方に優しさと深い思いを感じ嬉しい出来事だった。

 

Atsuko.T

 

 

ともくん

ともくんは自閉症と診断されました。

ご両親はそれでも向き合うことができず、朝から晩まで預けられて過ごしています。

当然、コミュニケーションの機会もなく育ってきたので、会話がしょっちゅう音信不通。

交信できなくなります。一人で突然「竜の背中に乗って」など喋り出したかと思うと「骨ザウルスが‥」とその独り言すら次々変化していくのです。

っとお家で見ているアニメか何かの動画が頭の中で次々流れてくるような様子です。

 

ある日、プール遊びで使っているホースを持っていたので、反対側から「もしもし。聞こえますか」と聞いてみました。

するとホースの反対側を耳に当て「はい。聞こえます」と言うのです。まだ返事はホースではしてくれないのですが、小さな声が耳に届いた様子がみられました。

またある時はあろうことか私の足にある「座りダコ」を見つけて触るとその感触が良かったらしく、ずっと触り続けていることもありました。

「これなに?」と聞くので「タコ」と応えると、そのタコにメロメロ。

「私に」ではなくて「タコ」にです。

 

そんな日が続いていたある日、みんなで「たなばたのかみさん」をあそんでいた時に私が神さまをやることになりました。

すると、スッと私の前に立って歩き出したのです。どこまで本人が理解しているかはわかりませんが、あそびに入るきっかけを私を通して掴んだ瞬間でした。

その日は嬉しそうに先頭で歌にあわせて歩いて参加することができたのです。

 

生活に生きにくさを抱えている子どもたちも本当は仲間と何か一緒にできる嬉しさはあるのではないかなと思います。

ただ、コミュニケーション力の必要なあそびは、彼らにとってとても難易度が高いのです。

側にいる大人がその架け橋に少しでもなれることは、きっと彼らの生涯にわたって大切な心の「ほっこり」を増やしてあげられることなのではないかなと思いました。

 

ちょろ松

ことばを育てるには?

今日はこどもの日。

 

最近耳にしたことで、ずっと気になっていることがある。

時々顔を合わせる小学校中学年のAくんに関わる話だ。

 

今の小学校はなぜか毎年、クラス替えがあるようだ。

そんな中でAくんが新しいクラスになった同級生4人に手足を押さえられ、お腹を打たれて腹痛を起こした とのこと。

そのときに近くにいたAくんの親友Bくんが打った子どもに殴りかかったといういきさつらしい。けんか?はそこで収まったらしいが。

 

Aくんの親は心配して病院に連れて行った。特に問題は無かったと言うことで安心したという。

打った子どもたちの何人かは(全員では無い!)親と一緒にAくんの家に謝りに来て一件落着となったらしい。

 

 

私はこの出来事を 後から耳にしたのだが、すぐに

「なぜ大人数で1人の子に暴力を振るったのだろう?」

「やった方の子どもたちは なぜことばで理由を伝えないのだろう?」

「Aくんはなぜ、打たれる理由を聞かないのだろう?」

「Bくんもなぜ理由を聞かないで殴りかかったのだろう?」

「関わった大人たちは理由を聞いて、子どもたちに話し合わせたのだろうか?」

などの疑問が浮かんだ。

 

Aくん、Bくんは我が家の前でも度々遊んでいる。

2人だけのことも、他の友だちを交えてのこともある。が、最近は一緒にいるのに1人ひとりでゲームをしている姿も見るし、2人そろって騒いでいる姿も見かける。

残念ながら、見通しのあるあそびをしている姿はなかなか目にしない。

道路で遊ぶ子どもの姿を目にしなくなってきているので「まだ良い方?」なのかもしれないが。

 

この子たちの様子を見ていて、ことばを交わす機会が少ない、と感じていた。

「あ・うん」の呼吸とはいえないように思う。

 

 

今朝、新聞を読んでいたら、『子どもの意見 すくえていますか?』というタイトルで『こども基本法の六つの基本理念』のうちの3と4で扱われている「意見がいえるか」という内容の記事が載っていた。

その中に「あなたはどう思う?」というような 子どもの意見を聞く接し方を大人がサポートしていくことが大切だと書かれていた。

意見を聞かれることによって、子どもたちの中に意見が作られていくし、表現して良かったと感じられる経験が増えていくと言う内容だ。

 

保育園、幼稚園で接している私たちは「なぜ?」「どうしたいの?」「どう思う?」

「どう感じたの?」「いやだったのね」「どうしたらよいと思う?」などのことばを意識してよく使う。

ことばで理解する、要求を述べる、そして自分の感情をことばによって整理することが出来るようになってほしいからである。

 

大人が的確なことばで、話しかけること、質問していくことの大切さを改めて感じる。

 

 

滅多に読まない「運勢覧」にも目がとまった。

私の生まれ月の今日の運勢は「学んでも考える事がなければ身につかず。学ぶ姿勢を見直すべし」だった。本当! 

考えるにはことばが必要。まずは」母語で理解し、表現し、考えることが出来なければ、いくらツールが増えても、挨拶と天気の話だけでは仕方ないと私は感じているのだが。

(oharu)

 

 

 

 

「ちょっとツールについてのぼやきを・・・」

今の小学校では、母語である日本語の確立前から英語が重要視されているようだ。挨拶が出来ない子も増えているが、挨拶するという人間同士のコミュニケーションがなければ、挨拶出来るようにはならないだろうし、ことばの内容が深まらなければ話すことも上辺のことだけになる。挨拶と天気の話だけ出来てもその先は?・・・。また自分で書くことも減り、タブレットで何でも済ませる授業が増えているようだが、自分の身体を使って書く、切る、時間をかけて工夫する事抜きで、先に創造性が生まれるのだろうか? 早いこと、量が多いことが必ずしも良いことではない、と私は思うのだが・・・。

・・・ぼやきはこの辺で

 

「こども基本法」から

3 年齢や発達の程度により、自分に直接関係することに意見を言えたり、社会の様々な活動に参加できる。

4 年齢や発達の程度に応じて、意見が尊重され、子どもの今とこれからにとって最も良いことが優先して考えられる。

今、変化を考える

最近のニュースを見聞きしていると「エッ? 何があったの? 間違いでしょ?」と思うようなことに度々出会うようになりました。

いわゆるフェイクニュースの類いと価値観の変化とは思いたくないような拝金主義、物質主義、権力思考による行動。

他人の人生を揺るがすようなことにも「自分に利益がもたらされることが一番」というような振る舞い、想像性の欠如につながる事柄などです。

 

感覚で判断する、イメージで自分の行動を決めてしまうことは今に始まったことでないのかもしれません。そして誰にでもおこることではあると思います。

そんなことを感じ、漠然とした不安を感じ始めていたときに購読している新聞で紹介されていた本に出会いました。

 

タイトルは

うつ病 隠された真実」ヨハン・アリ 作品社(3,200円税別)、

天皇問答」奥泉光原武史 河出新書(900円税別)です。

 

 

うつ病 隠された真実」は高い本なので、まず図書館から借りて読んでみました。

図書館で受け取ったときの印象は「厚くて端まで小さな字がびっちり!」。

最近にはないようなまるで研究書のような雰囲気を持ってしましました。

 

なぜこの本に関心を持ったかというと、友人の中にも保育園の保護者の中にも「うつ病」と言われる病名を付けられた人が多くなったことに疑問を感じると共に、どう支えたらよいのか、はたまた専門職でしか関われない問題なのかと考えるところがあったからです。

が、読み始めると ジャーナリストである本人がこの病を経験し、13年あまり飲んだ抗うつ剤では治らない部分の大きさに気づき、いくつかの国に出向いて病気の人たちや専門医などとの2,000以上の出会いをレポートして書いた本であることを知りました。

彼はそのレポートを通して病気の背景を分析していくつかの事柄についてのエビデンスを得たと報告しています。

また生き方の変換によって人と人との繋がりが出来てきて地域に変化がもたらされると共に病気が良くなっていった報告など、興味深いことが次から次へと紹介されていました。

今まで考えたこともなかったような原因が隠されてもいるのかもしれない、上辺だけで物事の判断する恐ろしさにも改めて気づかされました。

 

読みながら一番感じていたのは「保育と同じ」ということです。

子どもが悪い、親がなっていないといってみても 人間関係も保育は良くなりません。

何より自分たちの観察、分析と関わり方が、子どもや保護者をありのままに見ているのか、「問題」の背景を色眼鏡なしで見直さなくてはいけないのではないかと強く思わされたのです。

一見、1人ひとりは同じようであっても、原因が異なるかもしれない。同じようなマニュアルで済まないのが「人」なのだと改めて思わされています。

私としては珍しく(?)もう一度読んでみたいと思い、購入した次第です。

 

 

天皇問答」も特に明治以降の歴史をきちんと学んでこなかった私が、今回新聞の紹介に 『賛成反対にかかわらず自分で考える材料として手に取ってほしい』とあったことに関心を持ったからでした。

天皇制が明治になって作られたこと」。これは知らなかったわけではないのですがどのような人たちが後押ししてきたかという「事実」と「変遷」を知って、やはり上辺だけで考えてはいけない、雰囲気で流されていくことの怖さに改めて気づかされたという次第です。

人権より利用価値、ここにも他人を自分の利害関係で動かす今につながる「無意識の偏見」を感じさせられました。無意識であること、雰囲気に流されること、そのような態度がうまく利用されていく恐ろしさ!

 

 

 

早さ便利さが一番大事、お金が必要であれば他人を殺める、簡単にだまされる等々。

今までの価値観がどんどん変化している現代。目を覚ましていないと恐ろしい事態に突き進んでいきそうです。手にした機械に中毒症状を発症したり、一方的にしかものを見られなくなる・・・など。

 

「良識」に照らし合わせていかないと個人の一方的な正義に偏り、考えも狭くなっていく・・・そんな恐ろしさをひしひしと感じています。

「良識」ということばさえ無くなってしまうかもしれません。

 

想像することは経験・・・実際に顔と顔を合わせ、体験していくことの蓄積から始まります。それをことばに変換することで、抽象思考も可能になっていきます。

ものを考える、想像する、そして創造することを忘れずにいたいと願います。

それは常に根っこにある人との繋がりを重んじる良識に戻り、何を子どもたちに伝えるのかを意識していくことを忘れないような私たちであり続けなくてはならないと言うことなのでしょう。

「人間」は人と人との間に生きる者なのですから。

 

私たちが関わる保育の目標は一体何なのでしょう?

まずは身体の成長と共に自立することの助け、そして人との関わり方、価値観と共に自律を助け育てていく場だと思います。

 

改めて「How to」に陥らない保育を考えていきたいものですね。

そんなことをこれらの本を読みながら考えている昨今です。

 

関心がある方は是非ご一読あれ!

生活をたのしむ

先日の寒波。

さむいさむいと子どもたちと冬を肌で感じながら過ごすのもたのしい毎日です。

 

ある日、氷点下になる予報を聞いたので、さっそく砂場の型抜きを綺麗に洗い、

少しの水を張りお散歩で蝋梅や椿の花びらを拾い浮かべて一晩置くことにしました。

 

翌朝行ってみると、薄く薄く氷が張っていました。

予定では、氷のリース作りをするつもりでしたが、これでは飾ることもできません。

でもよく観察してみると、表面は平らなのですが、下の水の中では下へ下へと氷が延びながら凍っていく姿が見られました。

子どもたちいわく「アナ雪みたい」。

氷の柱が延びる様子は、小さな型抜きの水の中でも迫力を感じるほどです。

この日の氷は午前中にお散歩に行っている間に溶けてなくなってしまいました。

 

翌日も挑戦。

すると、なんとも素敵な氷のリースが出来上がりました。

空に透かしてみるとキラキラ宝石のようです。

子どもたちの興奮はご想像のとおりです。園庭の隅に飾る素敵なリース。

この日もお散歩に行っている間に溶けて帰ってきた時にはもう無くなってしまいましたが、それも自然のいいところだと思います。

 

生活の中の一瞬の感動がきっと子どもたちの、そして私たちの心を育むのだなぁと思います。

 

自然の偶然の感動と儚さや美しさは幼児体験では必須。

そこにわらべうたで言う「呼びかけの唄」が存在するのです。

自然に呼びかけて会話をしながら自分たちも自然の一部であることを感じ、大切にする

人へと育っていくのだと思います。    (ちょろ松)

 

 

ひふみよ

毎年1月の初回は「新年わらべうたの会」というのをしています。

普段は学童の子ども集団だけで遊ぶのですがこの日は親子参加。大人も子どもにかえって本気であそぶのがルール。

その中で、ひふみよというあそびをしました。

歌の終わりに二人組になって座る。相手を見つけられなかった人が次の鬼というあそびです。

こんなあそびは、この歌でなくてもよくありますね。

ゲーム性の高い事から、この集団遊びは昭和に入り作られて広まったものだろうと思います。

 

さてあそびが始まると、大人も子どもも真剣勝負。

人とは、最後に1人残るあそびはあそびなのだと知っていても「嫌」なのですね。

 

どちらかと言うと私は真ん中でソロで歌うあの感じも好きです。

子どもたちも半分そんな気持ちと残るのは嫌と言う気持ちが入り混じった感じ。

1人になっても大した事ないことも知っていますから。

そしてそれは、自分で何とかやり過ごそうとする責任もちゃんともっているからでもあります。

 

何度繰り返しても最後に笑いが起きる。

この関係性は積み上げられてきたものです。

ここの集団はほとんどが乳児期からずっと一緒に過ごしてきた仲間です。

良きにも悪気にも一緒に時を重ねてきました。

 

さて、あそびの様子ですが、普段から遊び慣れた集団で遊んでいることからこんな場面が見られました。

 

二人組になる時は本気。容赦はない。シビア。

だけど鬼になった時に最後絶対に誰か鬼の子どもに近寄って二人組になろうとする。

自分のことばかりではない姿。

また、シビアに見えますが、二人組になる時はガシッとお互い捕まえあって離さない。サッとタイミングを捕まえて相手を見つける。

そこに変な気を使う空気は作らない。

 

「そら、いっかんおわった」までは誰も輪から外れずギリギリのスリル感を楽しむ。

このメリハリの面白さは、1人では出来ないことです。ルールだからというだけではなく、皆がそのスリル感を作り出し楽しんでいるという姿があります。

 

面白いのはこの日だけ参加の大人組。もう側から見ていても必死。

子どもたちの方が周りがよく見ています。

まあ、大人も本気であそぶ日ですからいいのですが、サッと相手を見つけるのが苦手であたふた。3人三つ巴になると身を引く。

みんなで身を引くからおかしなことになります。ぐだぐだ時間を要してしまう。

反対に1人になると急に小さくなる。目が泳ぐ。

 

日常生活でいかに気を使って目立たないよう過ごしているのかと心配になります。

みんな「いいひと」でいたいのですね。

 

あそびとは、現実と離れたその場その時だけに成立するものです。

その世界の中で、自分で掴み取る力やタイミング・塩梅を駆使しながら身につけていく経験を積み重ねる場なのだと思います。

子どもたちはそんなことを考えてあそんでいるわけではありませんが。(笑)

 

面白いと思うところの分析としては、そのスリル感だったり悔しさや悲しさ・恥ずかしさなどを含めて、さまざまな感情体験をし、自分たちの体の中の感情の起伏を沢山感じる事が面白くてたまらないのではないかと思います。

 

子どもたちのあそびを観察する時に大切なのは、困っていることや困難を取り除いて楽しませるのではなく、あえて困ったり悲しんだりする経験を大切にして「でも、なんてことなかった」という経験に繋げていく事なのではないかと思います。

 

「人は困った時にしか成長出来ない」というような事を外山滋比古さんも仰っていました。

振り返ってみても、確かに自分も本当に困った時でなければ人の話をしっかり聞いていない傾向は感じ反省したり。

そこに助けてくれる人がいたら、思考は完全に停止。そしてその人に依存。

これだと思考をやめたら 成長・進化する事はない。

 

子どもの観察は自分を振り返ることに繋がっていくのかもしれません。

だから、こういう仕事をしていると考えて考えて自分も少しだけ成長できる気がするのです。

 

ちょろ松

 

外山滋比古(1923~2020)

英文学者・言語学者・評論家・エッセイスト・お茶の水大学名誉教授・全日本家庭教育研究会元総裁(ウィキペディアより)

 

 

 

言葉は通じなくても

昨年の暮れに夫のマラソン大会の応援で台湾に行ってきました。

 

大会の後、少し観光をしていた日のこと。

 台北101というビルの展望台に上がるため受付前で時間待ちをしていた時です。

 

「ぎゃーぎゃー」と泣き叫ぶ声と共に親子連れが近づいてきました。見ると一歳位の女の子がお父さんに前向き前抱っこされていました。私が顔を見て「あっぷー」と、やってみると泣き止んで「なに?」というような表情になりました。

 

ご両親と簡単な英語(発音が悪いのか全く伝わらず…)とジェスチャーでお話。お父さんはイラン、お母さんはフィリピンの方でした。その後、短い時間でしたが「れろれろれろ」と口元を見せ、舌を鳴らすことなどして女の子と向き合って遊びました。

指を一本、二本立てて「一歳?二歳?」と、日本語で訊いてみると2歳だとわかりました。

少しすると女の子は「タッタッタ」と、私の真似をして舌を鳴らすことができて嬉しそうでした。

 

女の子の体調など事情はいろいろあることなので一概には言えないことですが、2歳になっていたのなら自分で動きたかったのもあるでしょうし、前向き抱っこでは親と向き合って自分の気持ちを訴えることもできません。

女の子にとって、なんだかよくわからない待ち時間はストレスで、泣くことしかできなかったのではないかと思いました。

 

 そして、そんな隙間時間に遊べるのがわらべうた遊び。「どっちの手に入っているか」など何か他にも遊べたかなと後から思いました。

それでも、女の子と顔を見合わせて交流した体験は自分自身の喜びにもなりました。

 

今回感じたのは言葉は通じない外国の方・子どもとも、目を見て話すことでなんとなく通じ合うことはできるのだなということです。

 

さて、言葉が通じる人同士や特に目の前にいる子どもたちとはどうだろう。

 

これからも目を見てしっかり向き合って話したりわらべうた遊びをすることは意識していきたいと思います。

 

 Athuko.T