お茶をのみに来てください♫

子どもの育ちにそって大人と子どもが一緒にあそべる「わらべうた」の世界。保育や子育て支援の現場でわらべうたをしてきた「ゆずりはわらべうたインストラクター」の仲間たちが、日々思うこと、活動報告、あそびのアイデアなどを綴ります。

あそびって? 

このところ毎朝 4歳児のSちゃんが母子分離できず大泣き。

「おかあさん、もっとかまってよ」と言いたいのだろうが、  

言葉でまだうまく伝える事が出来ないのか・・・泣く泣く泣く。

これが今の朝の儀式。

しばらくそっとしておくと、あとは元気に楽しく過ごす事が出来ている。

まるで別人のようだ。

 

月齢は高く、案外記憶力も良いし、頭は良さそうだなと思うのに、

他人の使っているピンク色の椅子を「かして」と言って、

相手が嫌がっても ものすごくこわ〜い顔で睨んで容赦なく奪っていく。

貸さないとなるとへそを曲げて部屋の隅で怖い顔で睨み続ける。

説明しても気持ちをコントロールできない様子だ。でも、ここでは大泣きはしない。

悲しいわけではないのだろう。

 

どうもお母さんがストレスを溜めるとそれを敏感に察知してこうなるように感じていた。

 

朝の泣きは母親と離れることへの悲しみ。素直な悲しみ。かまって欲しいのにかまって

もらえないことへの悲しみ。そのように感じていた。

 

そんな悲しみと怒りの姿にみかねて「一緒に遊んであげるといいですよ」と

お伝えしたら、その後「うちの子、トランプの7並べが出来るんです。」と

嬉しそうに話してきた。トランプで遊ぶことにしたというのだ。

「で、負けた時に我慢できるんですか?」と聞くと

「それが、毎回大泣きするので負けてあげて、勝たせるようにしてるんです。」という。

これは一緒に遊ぶことなんかじゃない。

いかにも遊んでいる感満載だけど、ルールが守れないならそのあそびで遊んではいけな

い。泣くならまだ無理ということ。

 

わらべうたでもそう。

同じようなことが起こる。

「鬼になりたい」「まだやってない」又は「鬼が嫌で転んだふりをしたりしてごまか

す」ことでで表現するような子どもは、まだそのあそびの年齢に達していないのだと思

う。なぜなら、社会性の自己コントロールがまだ育っていないのだから。

 

思い通りにならない事を我慢しながら一緒に遊びたい(他人と共有したい)という

次へのエネルギーに変えて楽しめるくらいに心が育ってはじめて仲間に入れてもらえる

ようになるのが 本来の仲間と共有するあそびだと思うから。

そういうものが子どもの発達段階(社会性の発達段階)なのに、見えないものにはこと

さら弱いお母さんは「社会性って?」「みんなと遊ぶために訓練しなくては!」と思っ

たらしい。

それには、遊び方が理解できればいいのだと思ったようだった。

やってみて困ったのが大泣き。それを回避するために負けて気分良くして終わらせていたのだ。

 

たのしくあそべれば社会性は育つ?

いえ、ちょっとの悔しさと我慢をしながら、面白がる心を育てることが大切だと思っている。

 

保護者への丁寧な伝え方の工夫が必要になっているのか!?

 「みそっかす」「おみそ」「おまけ」としての条件を受け入れることで仲間に入れて

練習させていた“昔の“子どもたちに学びたい。

 

縦の集団であれば、「おみそ」も成立するものが、

現代では横の集団で成立もなかなか難しいのが現状。

入れてあげることであそびが本来のあそびでなくなる場合も多い。

側にいる大人がそんなことも理解しながらあそびをできるだけ本来のあそびとして維持

していくことも現場では必要だと思う。

 

そのためには「ちょっとの悔しさ」くらいの遊びの積み重ねが大切なのであって、

訓練や鍛錬するものではない。

だから、このあそびはまだその子にとって与えるには早いと大人が判断して、もう少し

小さな我慢ができるくらいの遊びを提供できないといけないのだなぁと思う。

 

このお母さんにそれが伝わるかどうかわからないけれど、丁寧に伝え続けたい。

こういう発達段階にあるならじゃんけんのような偶然の結果を受け入れ、

その面白さが分かっていくこと。

じゃんけんすら負けて怒るようなら、さらにその前に「おにきめ」のようなあそびを沢

山したほうがいいのではないかな?と思った事件でもあった。

 

ちょろ松