私は「短歌」をずっと詠んでいます。
馬場あき子の結社に入り、毎月10首詠むことを気が付けばもう随分長く続けています。
そもそも、「短歌」といえば百人一首を連想。
無知な私は、皇室はじめ特別な人のする事だと思っていました。
思い出すのは、高校生の頃。
私たちは眉毛の長い古典の先生のことを「文豪」と呼んでは、みんなで似顔絵を描いていた記憶しかなく古典はそれほど好きではありませんでした。
子育て公園仲間にたまたま古典の先生をしていた友だちがいて、
「子育て短歌をしないか」と誘われたことがきっかけでした。
この頃から日記を書くように歌を詠むというのが私のスタイルになりました。
そんな私ですが、始めてみると5.7.5.7.7の31の言葉で表現することは
とても面白いことだとわかりました。
伝えたい事のためにどの言葉を選ぶのか。
その選んだ一言でふわっと風景が広がったり壮大な風景が広がるのです。これが本来のことばの読み方なのだと思います。
少し前に、このブログで話題に出しましたが、
「紙で読む脳」とはこの事で、比喩や韻をたのしむ楽しみがあり、
日本語を「感じる」感性を駆使することです。
自分のイメージを想像して自分の中で膨らませ、言語化させて表出させます。
「デジタルで読む脳」とは、全く違う深い読みが必要。
日本語には本来「言霊」の存在が信じられていたように、
発したことばには命が宿される。そんな感覚があります。
さて、わらべうたにはどんな言霊が宿っているのでしょうか?
伝える側に言霊の意味が、ちゃんと理解できていなければ、
ただの唄とあそびで終わってしまい、先人の思いは断たれてしまいます。
伝承とは、その言葉やあそびの奥に秘められた先人たちの知恵をのせてこその伝承なのではないだろうかと私は日々思い考えています。
(ちょろ松)