お茶をのみに来てください♫

子どもの育ちにそって大人と子どもが一緒にあそべる「わらべうた」の世界。保育や子育て支援の現場でわらべうたをしてきた「ゆずりはわらべうたインストラクター」の仲間たちが、日々思うこと、活動報告、あそびのアイデアなどを綴ります。

人間とテクノロジー 主役はどっち?

機械に弱いと嘆いてばかりでは現実が許さない。つくづくそう思う。

このブログに載せようと昨年末に書き始めた原稿。そして続きを、と今年も半か月以上たって書き終えたものを、UPするときにどこに触れたのかすべてが消えてしまった。

久しぶりにキツネにつままれたような気分だった。

 

一週間たった今、気を取り直してパソコンに向かっている。

 

世の中、理不尽なことが次々と起きる。

人が荒れている。あおり運転、医師を巻き込んだ事件、他人を巻き込んだ自殺、誰でもよかったなどという殺人、窃盗、放火などなど…。自分本位の行動、ごまかし、不正、そして毎日報道されるコロナ情報…とマイナスのニュースを耳にするたびに気持ちが暗くなっていく。

 

生きるための価値観が変化してきているように思う。

他人への意識や尊敬のない行為が目立つ。

その理由が個人の問題だけではないように感じるのは私だけだろうか?

 

 

堤未果著「デジタル・ファシズムNHK出版を少し前に読んだ。

第9章にテクノロジーと教育に関してのことにふれている。

便利なオンライン授業などは、いくつかの現実的課題は解決しても教育の中心に据えられないという説を紹介している。

その理由の一つに「脳科学の研究成果に、他者の行動やその意図を理解する『ミラーニューロン』という脳内神経細胞を機能させるには、実際に人と対面で会う必要があるというものがある」そうである。

スクリーンやモニターを見ているだけでは生物学的なメカニズムは作動しないという。この『ミラーニューロンの働きによって共感を生む』としたら、便利なテクノロジーをよりよく使っていくためには今こそ『対面の経験』が必要ということになるだろう。

 

それを読んでいて、以前TVで、アメリカの子どもが語学を学ぶための実験番組を見たことを思い起こした。

子どもが繰り返し「画面を通して中国語を学ぶ」のと、同じことを「直接に人が子どもの前で行った」場合と子どもの習得にどれだけ違いが出るかという内容である。

教える側は同人物が同じことを同じ順序で行っている。

「画面」を通してみている子どもは繰り返し同じ画面を見ていた。

それにもかかわらず、この子どもたちの成績結果は「画面」も「実際」も見たことのない子どもと同じだった。

それに反して、対面で1回だけ働きかけられた子どもは他の子どもたちより成績が良かったという結果だったという。

やはり、ミラーニューロン・脳内神経細胞の働き方に違いが出るということなのだろうか。

 

大人にとってのテクノロジーと成長過程にある子どもにとってのテクノロジーの有効性は当然、違うものだろう。

人類にとってテクノロジーを有効に使っていくためには、のめりこみ過ぎずに常に振り返って確かめる行為が必要なのではないだろうか。

早く進むことの弊害を常に頭において気をつけなければならないだろう。

 

 

先日のzoomでの勉強会では、改めて対面でなくても!顔を見て話すことの意義を感じた。

人間は人と人との関係をもつことが大切だと改めて感じたのだ。

というのは他人から多くの刺激をもらって考えるし、自分と違った考えや行動を知ること、出会うことによって自分も含めた人への理解が少しずつ進み拡がるのではないかと感じたからだ。

 

 

そんなことをぼんやりと思っていたら、図書館からの連絡が入った。

ここ2か月程、図書館を利用していないので、間違えではないか?と電話してみた。

丁寧に応対していただくうちに間違いではなかったことが判明! コンピューター管理のすごさを感じた! 去年の8月にリクエストした本だったのだ。半年前のことだ。

急がなくてよいとはいえ、それだけ読みたい人がいたのか!とリクエストしながらすっかり忘れていたことに苦笑しながら取りに行った。 南杏子著「サイレント・ブレス」。

読みだしたら止まらなくなった。「終末期をどう生きるか」をテーマに様々な人の日常が描かれている。一昨年、自宅で亡くなった母のことや、昨年に何人かの友人が亡くなったことを思い起こしながら読んだ。

そしてやはり、人と人との関わりの多様性と重要性を感じた。人の経験を追体験できるものの一つが読書であることは確かだと思う。

 

だから、テクノロジーに弱くてよいという言い訳にはならないのは百も承知である。

だからこそ、人と人との豊かな出会いを大切にしていきたい。

 

 

私が納得のいかない許せない事柄の一つに『森友問題』がある。

他人を自分の利益のために道具のように扱う典型的な事件(あえて事件と言いたい!)だからだ。財務省決裁文書の改ざんをさせられ、それを苦に自死された赤木俊夫さんの妻、雅子さんが起こした訴訟が12月になって突然「認諾」という手続きを取って終結した。「認諾」などという言葉は私にとって初めての単語だった。

そうならないために1億円という多額の賠償金請求を行ったとニュースでは伝えていた。それなのに!である。

今年の1月26日の新聞によれば財務省は佐川氏には負担を求めないことを決定したという。ということは全て税金によって支払われるということになる。

この事件に関わった人たちはみな「昇進」している。普段、行われない「決着」の仕方をしてまで、何を隠し、どこに進みたいと思っているのか? 

日本の今の在り方、そして進む方向を誰もが意識して見据えていかなくてはならないのではないかと思わされている。

今は結構、怖いところまで世の中がおかしくなってきているように思えてならない。

 

この国(政府)は何を守るのか?誰を守ろうとしているのか?

少なくとも弱い人たちを守ることは視野に入ってはいないだろう。

国を動かしている「偉い人たち?」が、自分たちの一部に利益をもたらす経済を優先させ、人権無視を続けている様やごまかしの様子を目にし、耳にしていて育つ子どもたちや若者たちが他人のことを視野に入れられなくなってくるのも当然かもしれない。

でも、そのようになってしまうのはほんの一握りの人であることも信じたい。

多くの若者や子どもたちがまともな感覚を、他人に関心を持つような生き方をしていかれるようであって欲しい。

 

 

幼児や学童にまで広がってきたコロナのオミクロン株。

手をつなぎ、顔を見て声を歌い合い聴き合い笑い合うあそびをたくさんできるようになるのはいつのことだろう!?

 

子どもにとって楽しくなければわらべうたと言えないとは思うのだが、大人はわらべうたをただ楽しんで遊ぶだけでは不十分である。

遊びながら子どもたちがどのように成長していってほしいのか、どう助けていくのかをよく観、よく聴いて試行錯誤していきたい。

私たち大人がどのような社会を想像し、創造していこうとしているのか、1人ひとりの命を大切に思い意識しながら、その為に微力でも尽くし合えるよう、お互いに学び続けていきたいと改めて願っている。

良いテクノロジーの使い手となるためにも。(無理かな~?)

 

 

FM福岡 「小澤俊夫昔話へのご招待」 1月の放送で4回にわたってわらべうたについて話しました。YouTubeアーカイブになって聞くことが出来ます。一度聞いてみてください。