お茶をのみに来てください♫

子どもの育ちにそって大人と子どもが一緒にあそべる「わらべうた」の世界。保育や子育て支援の現場でわらべうたをしてきた「ゆずりはわらべうたインストラクター」の仲間たちが、日々思うこと、活動報告、あそびのアイデアなどを綴ります。

ぜひ読んでみてください!

購読新聞に「ネット依存」についての記事が3月25日から5回にわたって連載された。

以前から子どものスマホやオンラインゲームの問題点が指摘されていたので気になり、数年まえから何冊かの本を読み、知人や保育園にも紹介してきた。

 

学校でもタブレットが配布され、デジタル機器を使用しての授業が進んでいくようだ。

このことに少々怖ささえ覚えていた。

 

たまたま他の本を探しに立ち寄った本屋で

スマホはどこまで脳を壊すか』(榊浩平著・川島隆太監修 朝日新書

という衝撃的なタイトルの本を見かけ読んでみた。

 

今までにデータとしてわかっている問題点を平成生まれの脳科学者が分かりやすく説明している。

思考機能、コミュニケーション機能、もちろん学習能力の発達不全や衰えなど・・・。

そして何より、オンライン習慣との付き合い方の提案をされている。

 

止めることが不可能な便利器具をどう使っていくのか? 改めて考えさせられた。

保育、教育に重くのしかかる問題でもあると思いながら、一気に読んだ。

 

ぜひご一読を! そして仲間、保護者にも進めてください。

 

マスク・ことば

先日、はじめての幼児混合クラスに入った時のこと。

子どもたちが園庭に出ている間に担任とおもちゃの出し方や空間を工夫してみました。園庭から部屋に戻ってきた子どもたちは 今までと違った空間にもかかわらず

何事もなかったかのように遊びだしました。

 

子どものあそびを見守り、多少のことばかけや助けをして1時間半ほどたったころに

あそびが下火になったので声をかけて わらべうたを行いました。

 

歌いづらさもあるので「マスクをはずさせてね!」と言ってマスクをはずすと

1人の男の子が すかさず「木村さんってそういう顔してたのか~!」と。

思わず吹き出しそうになりましたが「そうなのよ」とすまして歌い始めました。

 

3月半ばにはマスクをつけるかはずすかが各人の判断に任されるとの

決議がされました。

 

コロナ不安や花粉症真っ只中という事情からも

マスクをはずせない人も多くいるでしょう。

もちろん、コロナやインフルエンザなどへの予防やお互いへの配慮は

まだまだ必要だと思います。

が、素顔で面と向かい合えるのは正直、嬉しい限りです。

 

 

特にこの3年間はマスク越しでのことばかけや

親の仕事がリモートになった影響もあり、

ユーチューブの視聴による言語獲得に問題を感じる子どもが増えていると

常々感じてきました。

 

「自分のことば」が弱くなることは

思考にもコミュニケーションにも影響があるでしょう。

口元を見せてことばをかけられることの大切さを

あらためて感じています。そして、3年ぶりにほっとした気持ちです。

 

 

先日、私が購読している新聞に次のような ことばについて の文言が

載っていました。書かれたのは日本語学者の米川明彦氏。

 

 『…私は以前コミュニケーションのために覚えておきたい「ことばの三箇条」を作成しました。

第一は自分のことばがいつも正しいと思うな。

第二にことばは人のためにあり、ことばのためにあるのではない。

第三にことばは相手を理解し、相手からも理解されるため、通じ合うために使う。

そこには相手に対する敬意と寛容な心が必要です。…』と。

 

ことばが記号化され、スマホを打てば

次のことばが予測されていくつか出てくるような時代にあって、

マスクをはずして子どもたちとも大人同士でも本音で語り合い、

意見が交わされるようなコミュニケーションツールとしての「ことば」を獲得していきたいと改めて強く思っています。

 

 

そのためにも、私たちにとっての母語である日本語の出発点にある「わらべうた」や「おはなし」を子どもに届けていきたいと、心から願っています。

おやじ

ある日のこと。


おままごとコーナーでいつものように4.5歳児がさまざまな役になりきってあそんでいます。
今日はレストランごっこらしく、手前には飲食用のテーブル。

チューリップ柄のかわいいクロスもかけて、

重ねカップの一番小さいカップが伏せて置いてあります。

これは「呼び出し」のためのものらしいです。

 

「食べにきてね」と誘われたのでお客さんになって来訪してみると、

厨房内はとても忙しそう。

どうやらUber eatsの注文が入っている様子。

外から帰ってきた一人の子どもは「中の人間は裏にまわるわ」と言いながら、

奥に入っていくリアルさに思わず笑ってしまいます。

注文はもちろんiPad。「はい。少々お待ちください」と丁寧な対応。

 

そこへ、お客さんになって入ってきたある子どもが、「すみません。注文お願いします」と。お店の人が「なんにしますか?」と聞くと、

とても真面目な顔で「おやじください」と言うのです。一瞬にしてみんな動きが止まりました。

 

初めは、わざとおかしな事を言っているのかと思っていましたが、どうもその子の表情はふざけた素振りはありません。

 

「おやじ」ってなんだろう???
しばらく考えて気がつきました!

 

「おじや」だったのです。

 

その場で私はのけぞって笑ってしまいましたが、

本人は「あ、それそれ。」といたって冷静。

そして、「おじや」を知らない周りの子どもも、至って冷静に「少々お待ちください」と奥の厨房に入っていき、

お皿の上に何やらいろいろなものをのせて「おじやらしいもの」をつくり

「お待たせしました」と出していました。

 

その対応の柔軟さにも感服。なんだって作れちゃうのです。

 

こんなふうに生活の中で新しいメニューを知った子どもが、ごっこ遊びのなかで

「使ってみる」という体験はごっこあそびの醍醐味。

 

周りの「おじや」を知らない子どもたちも、今夜うちに帰って「おじやが食べたい」と親にリクエストするのでしょう。

 

(ちょろ松)

 

龍退治

先日、「秋のおたのしみ会」がありました。

今回のテーマは「いつもと違うお散歩」。

 

さて、スタッフでどう楽しむかを考えてみました。

「いつもと違うお散歩」にするには。でも、行き先はいつもの森です。

 

そこで考えたのが、森に行くといつも大きな木の根っこが生えている場所があり、

そこは少し暗くてドキドキする場所。

最近話題になっている「なら枯れ」や「カエンダケ」。

そうだ!こうしよう!

この根っこは夜になると龍に変身して森を駆け巡り悪さをしているという設定。

 

さあ、子どもたちと魔法の呪文を唱えて封じ込めなければという設定です。

呪文は「でんでらりゅうりゃ」という長崎弁の唄に。

だって「出てきたいけど出てこれなくなった唄」だから。

 

 

当日、子どもたちと話し合い。

「夜になると森で悪さをしている龍退治なんだけど、どこにいるかわからないの」と投げかけると「昼間は石とか木に変身している」ということをヒントに、あっちではないか?こっちではないか?と声が飛び出し、みんなであちこち行って呪文を唱えて来ることになりました。

 

その日は森じゅう歩き回り唄って、「今日行ったところのどれかがきっと変身した龍!」ということで、この日は終わりました。

 

後日、森の妖精たちからお手紙が来て「おかげで、龍が魔法にかかって動けなくなり悪さもしなくなった」と。

 

ちょっとハリーポッター並みのドキドキ散歩でした。

 

ちょろ松 

 

 

仲間に背中を押されて・・・学童のわらべうた遊び

「仲間に背中を押されて・・・学童のわらべうた遊び」

 

 ゆずりはわらべうたインストラクターのオンライン勉強会で学童のわらべうたを始めるきっかけについて投げかけさせていただきました。

相談したからには行動しなくてはと思い、小学校で最近までPTAのことをしていた方に連絡してみるとそのまたお知り合いの放課後キッズのスタッフの方に繋がり、すぐに見学。

わらべうたは全く初めての事だったみたいですがやってみようということになり話しはとんとん拍子に日程が決まりました。

 

当日は子どもたちが集まってくる時間の少し前に行き様子を見ていました。

1年から3年生の30数名。

ランドセルを置き出席を確認するとすぐにドールハウスを出して遊ぶ子、ポケットモンスターのおもちゃを出して並べている子たち、積み木を組み立て始める二人、宿題のドリル計算を始める数人、プラバン作りをする子などそれぞれが好きなことを楽しめる時間になっているようでした。

 

やっと授業を終えてのびのび過ごせる時間に

「さあ片づけてわらべうたをしましょう!」というのはどうかなと思い、

スタッフと相談して部屋は少し広げてもらうものの自由参加で行うことにしました。

 

挨拶をして早速始める。耳慣れている曲からと思い、“あんたがたどこさ”を歌いながら「さ」のところで手をたたいたり、その場で跳躍。

次に“かわのきしの水車”二人組、三人組などになるのを楽しむ。

最後の二人組で“なべなべ”を何度かする。

“おくやまのおくの”は室内だったので役交代のような鬼ごっこ。「ごそごそ」はすぐに歌い始め楽しんでいるようだった。

鑑賞曲をと思っていたが上手く雰囲気を作れず一旦終わりにする。

 

その後、帰りの集まりのようなことをしたときに“こどものけんかに”の指遊びとあやとりで“かがとんできたぞ(ハンガリーの曲)”を観てもらう。“さよならあんころもち” 》

 

全体の様子としては1,2年生の女子が中心だったが男児も数人参加する。

周りで聴いていた子たちも気になっている様子でこちらを見ていました。

 

一人の男児は寝転んでわらべうたをして輪になって歩いている子の脚をつかもうとして何度もスタッフに止められていて、

きっかけがあったら入れたかもしれないが 私に声を掛ける余裕がありませんでした。そして鑑賞曲こそ聴いてほしかったので次回は必ずやりたいと思っています。

 

スタッフから「話しがとにかく聴けない子が多いからね(覚悟しておいて)」と言われていたので

ちょっとドキドキでしたが「きっと大丈夫」と、思えていたのはわらべうたの魅力と子どもを信じていたからだと思います。

 

背中を押してもらい、きっかけをいただいた皆様有難うございました。

 

また報告します。                          athuko,T

耳で聴く本

最近話題の「耳活」をご存知でしょうか?

 

生活の中での隙間時間の有効利用とのこと。イヤホンで聴きながら移動したり、家事をしたりすることのようです。

とても無駄のない素敵な情報の受け取り方だとも考えられます。何より、本を読む時間を作る事がむずかしくなった昨今、この方法があれば、沢山読むことができそうです。

 

けれども、私は少し立ち止まって考え込んでしまいました。どちらかと言うとのんびりゆっくり理解していくタイプの私には難しいなと思ったのです。

 

これはその人それぞれ違うと思いますが、例えば「誰かの声で」読まれてしまうと、その声で話の中のキャラクターが決められてしまいます。

録音する時の様子が紹介されていましたが、「この辺はもっと声色を変えて」など、プロはそこにご自身の個性も込めて録音されている様です。

 

私がなぜ難しいなとおもったかというと、私が一人で本を読む時に、私の中で起こっていることは、登場人物のキャラクターを自分で作り上げる事だったりします。

またそれは本を読む時の醍醐味でもあります。なので、誰かの想像したキャラクターを自分の中で一致させていく方が大変。そして、読み進めながらも立ち止まる事ができ、またその時に自分の考え方と擦り合わせたり、消化したりする時間を持ちながら、自分の中に情報を入れ、解釈していくという作業がしやすい。

そんな事を考えるとこの時間の速さについていけない私は難しいなと感じたのだと思います。

 

そんな事を考えてみると、絵本の読み方も、あまりキャラクター性を出さないことや、淡々と読むことで子どもの中に広がる想像性の余白を大切にすることなどと繋がっていくなぁと感じています。

 

私はそんな感性を大切にしたいと改めて思いました。

 

早いことや利便性ばかりにあまり目を向けすぎないことも気をつけ、大切な事はいつも振り返って考えてみることが、保育だけに限らず生活の中では大切なのではないかと思います。

 

耳から直接理解するシナプスも、時には刺激しておくことや、そんな脳も使ってみることも悪くはないと思っています。

 

「文明の利器は上手に使うこと」と言われた言葉を噛みしめながら。

 

ちょろ松

 

 

感動は「いのち」のはたらき

ある仲間で原稿を書く機会があった。

                          

タイトルは「旅の思い出」。まず思い出したのは次のような情景である。

 

広い草原に小さな花々が咲き、所によっては羊や牛が放牧され、さわやかな風が吹いている。家々の煙突の上には大きな巣とその上に立つコウノトリ

木造作りの教会の天井にはデザイン化された伝統的な草花の絵が描かれた板がはめられ、祭壇やテーブル、壁には伝統刺繍で仕上げられた布が飾られている・・・

 そんな田舎の風景を思い出すのはルーマニアトランシルバニア地方に残されたハンガリー人の村の光景だ。

 

一般のツァーで行くことは不可能な地域であることからおすすめ出来ないのが残念である。何年か前に保育研修ツァーとして、保育研修に加え、文化を知る体験として私自身が組んだ旅での景色だ。

 

 世界文化遺産の建物や街並みなどもいくつか観ているが、旅の思い出として今回だけでなく、まず思い出すのは、先に書いたような情景である。

 

特別なものでなく、私たちの年代なら部分的には日本でも見られた風景かもしれない。それなのになぜ真っ先に思い出すのがこの風景なのだろう?と自分でも少々不思議に思っていた。

「旅の思い出」と聞いた時に思い出したのもこの情景だった。そして丁度、新聞で紹介されていた「いのちの秘義」若松英輔亜紀書房)を手に入れ、読みだした時期と重なった。

 レイチェル・カーソンの「『センス・オブ・ワンダー』に秘められた危機の時代を生きるためのヒントを読み解く」と帯に書かれている通り、改めて自然との関わり、保育、教育とは何か、などを考えさせられる内容だった。

そしてまた『センス・オブ・ワンダー』を読み直したくなった。両方の本から改めていろいろなことを考えさせられている。

 

 

  「人間と自然はともに「いのち」であることによって、つながっています。

  しかし、人間はそのつながりを「利用」することばかり考えてきた。利用

  するだけの関係に深まりはありません。そうした関係は互いの存在をすり

  減らします。」

  「よろこび」が先にあれば、必ず「学び」は起こる。

  それがレイチェルの確信でした。本当に、私たちが深いところでよろこぶ、

  あるいはよろこびを経験すると、私たちのなかで「学ぶ」というもう一つの

  本能が開花する。そうレイチェルは感じている。」等々・・・。

 

  シュバイツァーのことばも紹介されていた。「未来を見る目を失い、現実に

  先んずるすべを忘れた人間、そのゆきつく先は、自然の破壊だ」と。

 

 

 

現在の世界の動きに早くから警告を鳴らし続けた人たちのことばに改めて考えさせられ、また私たちはどう生きたらよいのだろうかと自問せざるを得ない時間を過ごした。

 

そして、なぜあの景色を思い起こすのかが、少しわかったような気がしている。

さわやかな風やぬかるみの多い道を避けて歩いた動きの記憶、コウノトリの大きさと羽ばたいて飛び立つさまと動き、刈った草を積んだ馬車の音とにおい、深呼吸をしたくなるような空気とさわやかさ・・・

 

「何世紀に建てられて、~式の建物で…」などの知識でなく、

皮膚に感じる風や周りの動き、自然から聞こえる鳥のさえずりや

風のそよぐ木々の葉音、馬車の歯車や馬のひずめの音、

そして同時に感じる静けさなど感覚で経験したよろこびが思い出となって呼び覚まされるのではないかと改めて感じている。

 

 喜びとともにあった時間は心と体が、自然を含めた私全体を私自身が受け止める経験となり、感動であったのではないだろうか。

感動は「あたま」のはたらきでなく「いのち」のはたらきだとレーチェル・カーソンは言う。聴覚、視覚、皮膚感覚、運動感覚などを通した経験は「いのち」を感じた経験だからこそ、知識と共に受けた経験より深く自分の中に入り込んでいるのかもしれない。

 

知識も大切。だが、レイチェルが述べているように、その先に興味関心が起これば「知りたくなる」それが感性を土台とした知識なのではないかと改めて感じ、考えている。

(Oharu)