ある仲間で原稿を書く機会があった。
タイトルは「旅の思い出」。まず思い出したのは次のような情景である。
広い草原に小さな花々が咲き、所によっては羊や牛が放牧され、さわやかな風が吹いている。家々の煙突の上には大きな巣とその上に立つコウノトリ。
木造作りの教会の天井にはデザイン化された伝統的な草花の絵が描かれた板がはめられ、祭壇やテーブル、壁には伝統刺繍で仕上げられた布が飾られている・・・
そんな田舎の風景を思い出すのはルーマニアのトランシルバニア地方に残されたハンガリー人の村の光景だ。
一般のツァーで行くことは不可能な地域であることからおすすめ出来ないのが残念である。何年か前に保育研修ツァーとして、保育研修に加え、文化を知る体験として私自身が組んだ旅での景色だ。
世界文化遺産の建物や街並みなどもいくつか観ているが、旅の思い出として今回だけでなく、まず思い出すのは、先に書いたような情景である。
特別なものでなく、私たちの年代なら部分的には日本でも見られた風景かもしれない。それなのになぜ真っ先に思い出すのがこの風景なのだろう?と自分でも少々不思議に思っていた。
「旅の思い出」と聞いた時に思い出したのもこの情景だった。そして丁度、新聞で紹介されていた「いのちの秘義」若松英輔(亜紀書房)を手に入れ、読みだした時期と重なった。
レイチェル・カーソンの「『センス・オブ・ワンダー』に秘められた危機の時代を生きるためのヒントを読み解く」と帯に書かれている通り、改めて自然との関わり、保育、教育とは何か、などを考えさせられる内容だった。
そしてまた『センス・オブ・ワンダー』を読み直したくなった。両方の本から改めていろいろなことを考えさせられている。
「人間と自然はともに「いのち」であることによって、つながっています。
しかし、人間はそのつながりを「利用」することばかり考えてきた。利用
するだけの関係に深まりはありません。そうした関係は互いの存在をすり
減らします。」
「よろこび」が先にあれば、必ず「学び」は起こる。
それがレイチェルの確信でした。本当に、私たちが深いところでよろこぶ、
あるいはよろこびを経験すると、私たちのなかで「学ぶ」というもう一つの
本能が開花する。そうレイチェルは感じている。」等々・・・。
シュバイツァーのことばも紹介されていた。「未来を見る目を失い、現実に
先んずるすべを忘れた人間、そのゆきつく先は、自然の破壊だ」と。
現在の世界の動きに早くから警告を鳴らし続けた人たちのことばに改めて考えさせられ、また私たちはどう生きたらよいのだろうかと自問せざるを得ない時間を過ごした。
そして、なぜあの景色を思い起こすのかが、少しわかったような気がしている。
さわやかな風やぬかるみの多い道を避けて歩いた動きの記憶、コウノトリの大きさと羽ばたいて飛び立つさまと動き、刈った草を積んだ馬車の音とにおい、深呼吸をしたくなるような空気とさわやかさ・・・
「何世紀に建てられて、~式の建物で…」などの知識でなく、
皮膚に感じる風や周りの動き、自然から聞こえる鳥のさえずりや
風のそよぐ木々の葉音、馬車の歯車や馬のひずめの音、
そして同時に感じる静けさなど感覚で経験したよろこびが思い出となって呼び覚まされるのではないかと改めて感じている。
喜びとともにあった時間は心と体が、自然を含めた私全体を私自身が受け止める経験となり、感動であったのではないだろうか。
感動は「あたま」のはたらきでなく「いのち」のはたらきだとレーチェル・カーソンは言う。聴覚、視覚、皮膚感覚、運動感覚などを通した経験は「いのち」を感じた経験だからこそ、知識と共に受けた経験より深く自分の中に入り込んでいるのかもしれない。
知識も大切。だが、レイチェルが述べているように、その先に興味関心が起これば「知りたくなる」それが感性を土台とした知識なのではないかと改めて感じ、考えている。
(Oharu)