お茶をのみに来てください♫

子どもの育ちにそって大人と子どもが一緒にあそべる「わらべうた」の世界。保育や子育て支援の現場でわらべうたをしてきた「ゆずりはわらべうたインストラクター」の仲間たちが、日々思うこと、活動報告、あそびのアイデアなどを綴ります。

ことばと伝承

私は「短歌」をずっと詠んでいます。

馬場あき子の結社に入り、毎月10首詠むことを気が付けばもう随分長く続けています。

そもそも、「短歌」といえば百人一首を連想。

無知な私は、皇室はじめ特別な人のする事だと思っていました。

思い出すのは、高校生の頃。

私たちは眉毛の長い古典の先生のことを「文豪」と呼んでは、みんなで似顔絵を描いていた記憶しかなく古典はそれほど好きではありませんでした。

 

子育て公園仲間にたまたま古典の先生をしていた友だちがいて、

「子育て短歌をしないか」と誘われたことがきっかけでした。

この頃から日記を書くように歌を詠むというのが私のスタイルになりました。

 

そんな私ですが、始めてみると5.7.5.7.7の31の言葉で表現することは

とても面白いことだとわかりました。

伝えたい事のためにどの言葉を選ぶのか。

その選んだ一言でふわっと風景が広がったり壮大な風景が広がるのです。これが本来のことばの読み方なのだと思います。

 

少し前に、このブログで話題に出しましたが、

「紙で読む脳」とはこの事で、比喩や韻をたのしむ楽しみがあり、

日本語を「感じる」感性を駆使することです。

自分のイメージを想像して自分の中で膨らませ、言語化させて表出させます。

 

「デジタルで読む脳」とは、全く違う深い読みが必要。

日本語には本来「言霊」の存在が信じられていたように、

発したことばには命が宿される。そんな感覚があります。

 

さて、わらべうたにはどんな言霊が宿っているのでしょうか?

伝える側に言霊の意味が、ちゃんと理解できていなければ、

ただの唄とあそびで終わってしまい、先人の思いは断たれてしまいます。

伝承とは、その言葉やあそびの奥に秘められた先人たちの知恵をのせてこその伝承なのではないだろうかと私は日々思い考えています。  

 

(ちょろ松)

 

おにぎり

先日、保育園で「冬のおたのしみ会」というのをしました。

うちの園では、春夏秋冬と「おたのしみ会」と名づけて、生活の中のちょっとした「特別」をたのしんでいます。

 

今年は4.5歳混合クラスを担当している私は、この日はお母さんにおにぎりを作ってもらってくる日と決めました。

おにぎりを一つだけリュックサックに入れて、散歩先で食べて帰ってくるだけなのですが、この「おにぎり」が素敵で、今どきのいわゆるキャラ弁などではなく、おにぎりを包むラップなどに、お母さんたちが思い思いの絵を描いて持たせてくれるのです。

子どもたちはというと、おにぎり自慢大会。これは、お母さん自慢なのです。

 

これは、特に指示したわけではなく、春から始まって、誰かのおにぎりに目鼻がついていて可愛かったことから、子どもたちの中で広がって、お母さんたちの耳に入ったようです。

 

こんな素朴な事が子どもたちはとても嬉しいのがよくわかります。生活の中の小さな特別を大切に保育しています。

 

ちょろ松

 

 

あいにさらさら

あいにさらさら こがねにさらさら 

痛いところはぴんぽんぱちんと 

向かいのお山さ 飛んでけ! ふっ!!

 

 

ちょっとぶつけてしまって、大人から見れば怪我というほどでもないのだけど、

なんだか気持ちが立ち直れない…そんな時はこの呪文の出番です。

 

「“あいにさらさら”する?」と聞くと、

「うん。」

 

目に涙を浮かべ力なくうなずいていた子も、長い呪文に気を取られ、

「ふっ!!」と飛んでいく頃には、お空に飛んで行った“痛いの”を目で追いかけるのに夢中になって痛みはすっかり忘れている、という良く効く呪文です。

 

初めは私が一人で本当に空に飛んで行ったかのように視線を動かしていたのですが、

子どもたちもそれを目で追うようになり、指差しを始め、今や俳優並みの演技力!

 

上を見上げて目でしばらく追って見せる子。

「あっち!」と空高くを伸びあがって指さす子。

隣の部屋を指さして、「お隣に行っちゃった?」の問いに

大真面目に「うん。」とうなずく子。

 

0歳児クラス、実年齢1歳といえども真似る力と想像力はあなどれません(笑)

「“あいにさらさら”してる!」と気づくと周りの子もすぐに加わり、

みんなで“痛いのが飛んで行ったごっこ”をするのが一つの遊びになっています。

 

以前1歳児クラスにいたTくんは、ある日飛んで行った“痛いの”をつまんで「パクッ!」

なんと食べてしまったのです!! 

みんなびっくり。その後大笑い!

それからは痛いのは飛ばして食べる!というのが流行り、

クラス中みんな競って空中の“痛いの”をパクっと食べ、とさらなる楽しみを見つけていました。

 

子どもの発想の豊かさに驚かされた思い出もあるわらべうたです。

そんなTくんも今は小学一年生。きっとその発想力で今も周りのお友達を笑わせているのではと時々楽しく想像します。

そしてそのユーモアセンスが成長と共に大きく広がって、たくさんのユーモアを持った大人たちが増えるといいなあ、そんな人たちばかりの世の中はきっと平和だろうと、小さな期待をするのです。

小さな人たちの育ちにそんな願いもそっと込めてわらべうたを歌いたいと思っています。

 

 

ここまでの文章を書いた時、ロシアのウクライナ侵攻はまだ現実のものではありませんでした。

現実に戦争という事態を迎えて、そっと平和を願うくらいでいいのだろうかと自問しています。

何か問題が起こった時、「戦う」以外の解決方法を、俯瞰し、周りを巻き込んで相談して決められる人間で自分もあらねばならないし、きちんとそのように考えられる人に子どもたちを育てなければならない。

このことはずっと心にとめていきたいと思っています。

 

 

 

(sayo‐A)

自分という物語を生きる

松岡享子さんの訃報をお聞きして様々な本や絵本を思い出しました。

私は直接は存じ上げないのですがお話について考えていた時に偶然に見つけて読むことが出来、とても勉強になった講演会の記録であるレクチャー・ブックス1 お話について(東京子ども図書館)を読み返してみました。

 

 私たちは「自分という物語を生きるために、自分以外の人の物語を必要としている。」と、あります。

 

特にこれから物語を紡いでいく子どもたちにとって物語は必要なのです。

一つは芸術的な物語。特定の作家によって書かれた物語と様々な語り手を通して伝えられるうちに洗練された昔話です。

そしてもう一つは実際にそこにいる家族や保育士、教師など身近な人の中に物語を感じることで子どもは学んでいる。

 

今、子どもたちが成長していく上で、周りの大人はどのような物語を語ってくれているだろうか。木村さんのおっしゃる通り、最近は理不尽な物語ばかりがニュースになっている。そして、そんな事件を誰でも見ることができる。見本となる大人がごまかしたり、間違えた時も謝ることをせずにいる。

子どもたちは「どんなこともやって許されるのだ。」と、いうようなことを学んでいるのではないかと心配になる。

 

子どもたちは「早く大きくなりたいなぁ」と、未来を楽しみにしているだろうか。

子どもたちが美しい日本語を使って考えられるようになっているだろうか。

 

 

本文から

・「お話」が子どものことばを育てる上で大事な働きをしていると思われるのは、ことばの中にある音楽を感じさせるといいますか、ことばの音としてのおもしろさを知らせるという点です。…中略…この時期こそ、わらべうたや詩と並んで韻律をもったことばによるお話をたくさん聞かせてやりたいですね。それは子どもの語感をみがきますし、母国語への愛情も育てます。

そしてそれを大好きな人から聴くから「楽しい」、「美しい」が心に刻まれていくのです。

 

・今では小さな子どもたちでも字を読むようになってきました。けれども…中略…子どもたちがコミュニケーションの基本的なかたち(目と目を合わせ声によってことばを伝えそれが通じた喜びの感情を体験すること)に充分習熟することなしに文字を身に着けてしまうことはよいことだとは思えないのです。

 

・…最初からマイクの声、機械の声を聞くということは私たちの感覚をどこか非常に貧しくすると思います。そして、コミュニケーションというものに対する私たちの信頼をどこかうつろなもの、ゆがんだものにすると思います。ですから、どうか子どもたちには肉声で物語を語ってやっていただきたいと思います。

 

・特に強調したいのは、今日の子どもをとりまく言語環境を考えた場合、もし私たちが意識的に、努力して、伝承的はわらべうた、昔話、また芸術的な創作活動である詩、物語に子どもたちを出会わせてやろうとしなかったら、おそらく子どもたちは、どこでもそういうものにふれる機会をもたないだろう。

 

 

小澤俊夫さんも仰っていましたが、わらべうたとお話の世界は本当に大事なところに共通点がある。

ただ読んでやればいい、遊んでやればいいというものではなく人と人の関係性が大事なのですね。

 

私はわらべうたも子どもの文学も大事だと思います。

保育士時代にも好きな詩や語呂合わせなど唱え、子どもたちと楽しみました。

できるだけお話も覚えて自分の語り口で語ることができたらどんなに良いだろうと思いましたが努力が足りず、なかなか覚えられずにいました。子どもたちが豊かな「自分という物語を生きるために」わらべうた遊びを伝えることと共に、少しでもお話を覚えて語ることができたらと思います。

 

 

 この場をお借りして、

「松岡享子さん、素晴らしいお話をたくさん残し伝えてくださり有難うございました。」

 

 

athukoT

 

人間とテクノロジー 主役はどっち?

機械に弱いと嘆いてばかりでは現実が許さない。つくづくそう思う。

このブログに載せようと昨年末に書き始めた原稿。そして続きを、と今年も半か月以上たって書き終えたものを、UPするときにどこに触れたのかすべてが消えてしまった。

久しぶりにキツネにつままれたような気分だった。

 

一週間たった今、気を取り直してパソコンに向かっている。

 

世の中、理不尽なことが次々と起きる。

人が荒れている。あおり運転、医師を巻き込んだ事件、他人を巻き込んだ自殺、誰でもよかったなどという殺人、窃盗、放火などなど…。自分本位の行動、ごまかし、不正、そして毎日報道されるコロナ情報…とマイナスのニュースを耳にするたびに気持ちが暗くなっていく。

 

生きるための価値観が変化してきているように思う。

他人への意識や尊敬のない行為が目立つ。

その理由が個人の問題だけではないように感じるのは私だけだろうか?

 

 

堤未果著「デジタル・ファシズムNHK出版を少し前に読んだ。

第9章にテクノロジーと教育に関してのことにふれている。

便利なオンライン授業などは、いくつかの現実的課題は解決しても教育の中心に据えられないという説を紹介している。

その理由の一つに「脳科学の研究成果に、他者の行動やその意図を理解する『ミラーニューロン』という脳内神経細胞を機能させるには、実際に人と対面で会う必要があるというものがある」そうである。

スクリーンやモニターを見ているだけでは生物学的なメカニズムは作動しないという。この『ミラーニューロンの働きによって共感を生む』としたら、便利なテクノロジーをよりよく使っていくためには今こそ『対面の経験』が必要ということになるだろう。

 

それを読んでいて、以前TVで、アメリカの子どもが語学を学ぶための実験番組を見たことを思い起こした。

子どもが繰り返し「画面を通して中国語を学ぶ」のと、同じことを「直接に人が子どもの前で行った」場合と子どもの習得にどれだけ違いが出るかという内容である。

教える側は同人物が同じことを同じ順序で行っている。

「画面」を通してみている子どもは繰り返し同じ画面を見ていた。

それにもかかわらず、この子どもたちの成績結果は「画面」も「実際」も見たことのない子どもと同じだった。

それに反して、対面で1回だけ働きかけられた子どもは他の子どもたちより成績が良かったという結果だったという。

やはり、ミラーニューロン・脳内神経細胞の働き方に違いが出るということなのだろうか。

 

大人にとってのテクノロジーと成長過程にある子どもにとってのテクノロジーの有効性は当然、違うものだろう。

人類にとってテクノロジーを有効に使っていくためには、のめりこみ過ぎずに常に振り返って確かめる行為が必要なのではないだろうか。

早く進むことの弊害を常に頭において気をつけなければならないだろう。

 

 

先日のzoomでの勉強会では、改めて対面でなくても!顔を見て話すことの意義を感じた。

人間は人と人との関係をもつことが大切だと改めて感じたのだ。

というのは他人から多くの刺激をもらって考えるし、自分と違った考えや行動を知ること、出会うことによって自分も含めた人への理解が少しずつ進み拡がるのではないかと感じたからだ。

 

 

そんなことをぼんやりと思っていたら、図書館からの連絡が入った。

ここ2か月程、図書館を利用していないので、間違えではないか?と電話してみた。

丁寧に応対していただくうちに間違いではなかったことが判明! コンピューター管理のすごさを感じた! 去年の8月にリクエストした本だったのだ。半年前のことだ。

急がなくてよいとはいえ、それだけ読みたい人がいたのか!とリクエストしながらすっかり忘れていたことに苦笑しながら取りに行った。 南杏子著「サイレント・ブレス」。

読みだしたら止まらなくなった。「終末期をどう生きるか」をテーマに様々な人の日常が描かれている。一昨年、自宅で亡くなった母のことや、昨年に何人かの友人が亡くなったことを思い起こしながら読んだ。

そしてやはり、人と人との関わりの多様性と重要性を感じた。人の経験を追体験できるものの一つが読書であることは確かだと思う。

 

だから、テクノロジーに弱くてよいという言い訳にはならないのは百も承知である。

だからこそ、人と人との豊かな出会いを大切にしていきたい。

 

 

私が納得のいかない許せない事柄の一つに『森友問題』がある。

他人を自分の利益のために道具のように扱う典型的な事件(あえて事件と言いたい!)だからだ。財務省決裁文書の改ざんをさせられ、それを苦に自死された赤木俊夫さんの妻、雅子さんが起こした訴訟が12月になって突然「認諾」という手続きを取って終結した。「認諾」などという言葉は私にとって初めての単語だった。

そうならないために1億円という多額の賠償金請求を行ったとニュースでは伝えていた。それなのに!である。

今年の1月26日の新聞によれば財務省は佐川氏には負担を求めないことを決定したという。ということは全て税金によって支払われるということになる。

この事件に関わった人たちはみな「昇進」している。普段、行われない「決着」の仕方をしてまで、何を隠し、どこに進みたいと思っているのか? 

日本の今の在り方、そして進む方向を誰もが意識して見据えていかなくてはならないのではないかと思わされている。

今は結構、怖いところまで世の中がおかしくなってきているように思えてならない。

 

この国(政府)は何を守るのか?誰を守ろうとしているのか?

少なくとも弱い人たちを守ることは視野に入ってはいないだろう。

国を動かしている「偉い人たち?」が、自分たちの一部に利益をもたらす経済を優先させ、人権無視を続けている様やごまかしの様子を目にし、耳にしていて育つ子どもたちや若者たちが他人のことを視野に入れられなくなってくるのも当然かもしれない。

でも、そのようになってしまうのはほんの一握りの人であることも信じたい。

多くの若者や子どもたちがまともな感覚を、他人に関心を持つような生き方をしていかれるようであって欲しい。

 

 

幼児や学童にまで広がってきたコロナのオミクロン株。

手をつなぎ、顔を見て声を歌い合い聴き合い笑い合うあそびをたくさんできるようになるのはいつのことだろう!?

 

子どもにとって楽しくなければわらべうたと言えないとは思うのだが、大人はわらべうたをただ楽しんで遊ぶだけでは不十分である。

遊びながら子どもたちがどのように成長していってほしいのか、どう助けていくのかをよく観、よく聴いて試行錯誤していきたい。

私たち大人がどのような社会を想像し、創造していこうとしているのか、1人ひとりの命を大切に思い意識しながら、その為に微力でも尽くし合えるよう、お互いに学び続けていきたいと改めて願っている。

良いテクノロジーの使い手となるためにも。(無理かな~?)

 

 

FM福岡 「小澤俊夫昔話へのご招待」 1月の放送で4回にわたってわらべうたについて話しました。YouTubeアーカイブになって聞くことが出来ます。一度聞いてみてください。

さよならあんころもち

♪ さよなら あんころもち またきなこ ♪

 

夕方になるとお支度の廊下では、あちらこちらでこのわらべうたが聞こえてきます。

私たちの保育園の帰りの挨拶なのです。

 

2人で向かい合って両手を繋ぎ、拍に合わせて上下に揺らしながら屈伸をして、

最後に「タッチ」と言って両手を合わせます。(園独自の遊び方です。)

 

“さようなら!また明日、元気に会いましょうね!”

お話ができる子も、まだできない子も、そんな思いを込めて目を見て触れ合い、

さよならの挨拶をしています。

 

朝、お母さんと離れがたい時、「じゃあ、“あんころもち”しようか?」

の一言で切り替えて、お母さんとさよならの挨拶ができる子もいます。

 

わらべうたはそんな時にも、私たちを優しく支えてくれるようです。

 

 

秋に入り、0歳児クラスの子どもたちも大きくなって、

大人と“あんころもち”の挨拶ができるようになりました。

Yくんは“あんころもち”の言葉を聞くだけで俄然やる気になり、

さよならの場面でなくても高速ハイハイで大人のところへ来て両手を出し、

 “やって!” の仕草。

2歳児クラスのお姉ちゃん仕込みの振り付けを “もっと!もっと!” と楽しんでいます。

それを見た他の子どもたちも “やって~!” のリクエスト。一大ブームとなりました。

 

そんなある日、座っていたSくんの両手をRちゃんがそっと握り始めました。

Sくんはびっくり。最初は手をほどこうとしていたのですが、

私の「もしかしてRちゃんは“あんころもち”がしたいのかな?」という言葉に

 “そうか!” と理解した様子。

 

2人で手をつないでそっと立ち上がり、歌に合わせてぎこちなく揺れ始めました。

初めてできた“タッチ”の優しいこと!

 

手を合わせる仕草は、大人が思っているよりも難しく、

お互いに集中して一生懸命合わせているので、ゆっくり優しくなるのですね。

2人の “やったあ!できた!” という達成感と、

ほっとしたような嬉しそうな笑顔が印象的でした。

 

そこから2人は“あんころもち”のできる相手、として親しみが増したようです。

“あんころもち”やる?」

「いいね!やろう!」

喃語から少しずつ言葉の見え始めたばかりの子どもたちですが、

アイコンタクトと仕草だけで通じ合い、こんな言葉が聞こえてくるようです。

 

 

時には相手がやる気にならず、“やろうよ!” “やりたくないよ!” “やめて” “何で~” と気持ちがすれ違うことも。

 

笑ったり、怒ったり、泣いたり、忙しい子どもたち。

 

身体全体で自分の気持ちを伝えることで、

相手にも自分とは違う気持ちがあることに気づき始めています。

 

一緒に遊ぶには、お互いの気持ちが通じ合うことが大切ですものね。

ぶつかって、考えて。

成長していく子どもたちは、みんなキラキラと生きる力にあふれています。

 

 

振り返って、言葉を持つ私たち大人は、相手とそっと手を合わせるように、

気持ちを通い合わせることを忘れていないだろうか?

 

子どもたちの姿からふと、そんなことを思ったりもしました。

 

 

sayo-A

はじめのいっぽ

先日お散歩先で子どもたちが「はじめの一歩」を始めました。(4歳児)

 

少し発達に遅れのあるNちゃんは、お友だちが大好き。

みんなと並んで自分も参加するつもり満々。でもあそびのルールは理解できません。

みんなと同じようにするのがNちゃんの参加の形です。

 

鬼の子どもが何か言って、振り返ったら止まるらしい事が理解できたので、

一緒に並んでいます。

鬼の背中に誰かがタッチしたら、「よーいドン!」とばかりに走り出す事はわかったようでした。

 

他の子どもたちもNちゃんのことはよくわかっているので、

一緒に走っていても誰も文句言う子どもはいません。

が、ある日Nちゃんは鬼になりたくなった様子。

追いかけっこの後、鬼になった子どもがスタンバイしに行くと

Nちゃんが立って動きません。

 

「どうするかな?」と思って様子を見ていると、

子どもたちが「Nちゃんもやりたいの?」。

するとNちゃんはおおきくうなずいてみんなを見ています。

「じゃ、一回やさせてあげようか」と言って

みんなで「はじめの一歩」といいながら、はじめました。

が、Nちゃんは何と言うかわかりません。

 

その時一人がサッとかけて行ってNちゃんの背中をタッチ!

そして追いかけっこのような展開になったのです。

 

その後は、もともとの鬼の子どもが何事もなかったように始めたのです。

 

子どもたちの勘の良い対応にとても感動してしまいました。

 

あそびとは、こんなふうに子どもたちの中で展開され、

どんな子どもも一緒にあそべるあそびかたを見つける力があるのだと改めて思いました。

 

ちょろ松