想像することは行為や他人への思いやりにつながると感じています。
若いころ、「なぜ、分からないのだろう?」「なぜ、通じないのだろう?」と不思議に思ったことがあったのを思い起します。
やはり、自分の経験の範疇(実際の経験・読書・他人との会話・他人との共感など…)でしか、他人のことは理解できない、想像できないのかもしれません。
最近になって「自分の経験からしか想像は起きない」という話を耳にしました。
何もかも実体験することは出来ないでしょうが、ある程度の経験から「思いを馳せる」ことが出来るようになるのではないかと思います。
1人ひとりの違いを認め合っていくことは大切なのだろうと思います。しかし、違うからそのままでよいということではないでしょう。
友人の1人が最近、引越してこんなことを言っていました。
アパートは管理してもらっているとはいえ、駐車場に草が生えていても誰も抜かないし、ごみが落ちていても拾わないのに驚いたというのです。
コロナ下でごみを拾うことはためらうことも多くなりましたが、確かに周りのことに無関心なことが増えているなと感じます。
彼女は続いて「最近は学校で自分の教室も掃除をしないんですてね!」と。
そういえば、短大でのわらべうたの授業時に、少しでも動けるようにと机をずらしてもらったところ、出てきたゴミ、ゴミ、ゴミの多さ。思わず掃除道具を持ってきてきれいにするようにと伝えると、「えっ?」と言って動けない学生の姿を目にしたのを思い起こしました。
自分の使った場所をもとのように戻す、きれいにすることの経験が積まれていなかったことに驚きを覚えました。
コロナ、コロナで清潔に!消毒を!と自然免疫もつかないような生活を強いられる昨今ですが、子どもたちへの多彩な経験を保証していくことが他人と生きていく社会性の発達の為にも大切だと強く思わされています。
先日久しぶりに観察に入った保育園では各幼児クラスの前にそれぞれの畑に豊かな実りが見られました。楽しそうに収穫する姿が輝いて見えました。(ただし今は、直接口に入れることは出来ないとか!残念です‼)
ますます「ちぐはぐな規制」を強いられる昨今ですが、子どもたちとどのような経験が出来るのか、健康に気を付けながらこの夏を過ごしていきたいと願っています。